二重構造のブログ
昨年の11月に掲載した『「恋空」:共感と匿名性から生まれたもの』(日本語版2007年12月27日付)に、このような一節がある。
日本ではネット文化が進化するにつれ、匿名性が基本原理であるということがより浮き彫りにされつつある。
1年が経過した今も、この見解は正しいと言えるだろう。現に、日本におけるブログのほとんどが(SNSも同様に)実名を伏せたうえでも十分に機能している。アメリカの ペレーズ・ヒルトンやマーコス・モリツァスのようなサクセスストーリーとは対照的に、日本ではブログで注目されることによって活躍の場を広げるというケースは少ない。
日本で最もポピュラーなネット掲示板「2チャンネル」ではその匿名性ゆえに、ほとんどのユーザーが決まったハンドルネームを使うことすらしていない。『電車男』や『恋空』の作者(もしくは主役)たちは、公の場に姿を現してその成功を称えられたことは一度としてない。彼らはあえて公の場に出てこようとしないようだが、匿名性がこういった現象の一部であることをメディアは受け入れている。
匿名性が日本のネット社会を理解するための基本であることは明らかだが、匿名性がインターネットを利用するうえでの条件というわけではない。もしそうならば、すべてのブログは匿名であるはずだが、少なくとも今のところは芸能人や有名人が、それとわかる名前でブログを書いているのを目にすることができる。
一般の人々が、それぞれ密かにインターネットやブログを利用している一方で、有名なデザイナーやクリエイターはhoneyee.comで情報発信し、モデルやタレントはamebaブログでファンにパーソナルな一面を披露してアピールする。こういったいわゆる“プロフェッショナル”たちは本名や顔を公開したうえで、自身の意見やアイデアを明確に主張している。内容は料理の写真やイベントの報告、仕事の話題などさまざまであり、日記となんら違いないものが多い。このように、現実の社会ですでに有名になっている人はインターネットやブログでも自由な環境を得ているが、それに比べて一般の人々には明らかに自由がないように見える。
“プロフェッショナル”ではない一般の人々は、自分なりの意見を主張することや、個人的なブログを通して名前が知られることで人々の非難を浴びてしまうかもしれないと、無意識に恐れているように感じられる。欧米のブログサイト側はこうした社会の姿勢に対し、公然と侮辱した態度をとっている。その行動こそがプロへの壁を越えるための最短距離(近道)であり、野心に燃える人々がブログを受け入れた理由なのだ。欧米でブログに注目が集まっているのは、名前を出して主張することで人々が有名になれるからである。それとは逆に日本では、特定の名前を使わずに公の場で意見を主張できることが好ましいと考えているようだ。
結果として、匿名性は既存のネットを通して社会秩序を変えていくという可能性を薄くしている。そしてブログの二重構造という体系が日本の社会組織の原則をより強固なものにしてしまっている。「Web2.0」以前がそうであったように、世間に容認されているのはトップにいる人々だけだという現実である。
インターネットとメディアとの力関係においては、依然としてメディアの力が上回っている。ネットユーザーは素性が知られてしまって世間の非難を浴びることに未だ敏感であり、出所のわからないようなハンドルネームを使い、表に出て堂々と自分の意見を述べようとはしない。人を納得させるような鋭い意見を述べて人気を集めているブログでさえ、その作者は自分の本名を明かしていない。調査によると、日本におけるブログの読者はブログという媒体に対し大きな信頼を寄せているようだが、自分の才能を認めさせようと意欲のある者はほとんどいないという。
これに対して、芸能人や有名人、教授、エリート組織の役員といった人々は、欧米と同じように堂々とブログで自分の意見を主張できる環境に恵まれている。つまり日本で有名なブロガーになりたければ、その前に社会でも有名でなければならないというわけである。
近年、インターネットを通して一般の人たちの声が公の場に出てくるようになってきている。「2チャンネル」のようなネット掲示板では、ミクロマス的な苦情や不満を訴えることが容認されている。“毎日デイリーニューズWaiWaiコラム”問題では、数々の論争がネット上で起こり、“炎”と化した匿名の群衆の書き込みによって企業に大きな衝撃を与えるほどであった。これらは確かに社会的な変化の兆しととることもできるが、こうした匿名の集団というのはそもそも、社会組織の行き過ぎた振舞いに対して否定的な文句をつけることしか念頭にないのである。「2チャンネル」に可能なのは、はせいぜい“社会”の外側のペンキを剥がすことであり、構造そのものを崩すことはできない。
テクノロジーとは単なるきっかけでしかない。既存の日本の社会原理が新しい方向へと進むための、しかし決して新たな哲学的価値を生じさせるものではない。我々が欧米のインターネットに期待している“解放的”な社会変化とは、欧米的価値を前提条件としている。日本のブログコミュニティはネットワーク上の社会的価値をただ再現するのみで、インターネットそのものが変化することはない。日本の二重構造の現実社会をブログもなぞっているだけである。








